2026年2月7日、
「第9回 生命を見つめるフォト&エッセー」表彰式が
東京都内にて開催されました。

このたび、拙作エッセイ
「完治と閉院の日に」が
日本医師会賞を受賞し、
表彰を受けました。
本作は、20代で指定難病を経験した患者としての視点から、
医療と命に向き合う時間を記録したエッセイです。
治療の過程で出会った医師の姿勢や言葉を通して、
医療が人の人生に与える影響を見つめ直すことを目的として執筆しました。
医療・看護・患者との関わりや、
人間や動植物の「いのちの輝く一瞬」をテーマとする本公募において、
本作を選出いただいたことを、
大変重く、ありがたく受け止めています。
今後も、これまでの経験を言葉にしながら、
誰かの人生に静かに寄り添う活動を続けてまいります。
本企画に携わられた関係者の皆さまに、
心より感謝申し上げます。これまで、本当にたくさんの人をカウンセリングしてきました。
時間も、お金も、勇気も使って、ここまで来ている。
それなのに——
変わらない。
変えようとしない。
その姿を前に、正直、何度も悶々としてきました。

僕は、ずっと伝えてきました。
とにかく、動こう。
実際、動いた人は、確実に変わりました。
結果が出た人もいれば、人生の流れが変わった人もいる。
中には、病気が治った人もいました。
一方で、ほとんどの人は変わらない。
理由は、とてもシンプルです。
その場に居続けているから。
学び続けている。
癒され続けている。
分かってもらおうとしている。
でも、「今までと違うこと」は、
していない。
その場にいても、人は変わりません。
変わりたいなら、今までと違う選択をするしかない。
生き方や、在り方を、少しでも変えるしかない。
誤解してほしくないのは、
これまでの生き方が「間違っていた」と言いたいわけではありません。
よくここまで、耐えてきた。
よく頑張ってきた。
それは、事実です。
でももし、
苦しい。
しんどい。
このままは嫌だ。
そう思っているなら——
今、変わるしかない。
誰かが変えてくれるわけじゃない。
環境が整うのを待っても、何も起きない。
変わらない選択をしている限り、
人生は、ちゃんと“変わらないまま”でいてくれます。
正直に言うと、
変わらない人を見続けるのは、つらいです。
ここまで来ているのに。
あと一歩なのに。
そう思う場面を、何度も見てきました。
変わることが、正解だとは思っていません。
でも、しんどいなら。
苦しいなら。
変わろうよ。
僕は、そう言い続けます。
一緒に、やろう。
逃げずに、現実を動かそう。
それが、僕の仕事であり、
「生き残ってしまった人の、言葉にできない孤独」
これは
・難病を越えた人
・大切な人を見送った人
・人生の底を知ってしまった人
が、誰にも言えずに抱えている感情です。
今日は、
あまり表では語られない話をします。
共感されにくいし、
言葉にすると誤解もされやすい。
それでも、
これを必要としている人が
きっといると思うからです。

生き延びたあと、
人は必ずしも「前向き」になるわけではありません。
むしろ、
言葉にできない孤独を抱えることがあります。
「助かってよかったね」
「元気になってよかったね」
そう言われるたびに、
笑顔で頷きながら、
心の奥で思ってしまう。
――本当に、そうだろうか。
生きたかった人が、亡くなり
生きたくても生きられなかった人がいて
それなのに、自分は生きている。
この感覚を、
誰に説明できるでしょうか。
感謝しなければいけない。
前向きでいなければいけない。
もう大丈夫な人でいなければいけない。
でも、
心はそんなに器用じゃありません。
僕自身、
何度も「生きてしまった」と感じたことがあります。
喜びより先に、
戸惑いが来る。
希望より先に、
責任のような重さが来る。
「この命を、
どう使えばいいんだろう」
そんな問いが、
静かに、何度も立ち上がってきます。
ここで、
無理に答えを出そうとしなくていい。
使命を探さなくていい。
意味づけを急がなくていい。
生き残った人は、
しばらく“迷っていていい”。
これは、逃げでも弱さでもありません。
人は、
一度“死の近く”を通ったあと、
同じ速さでは生きられなくなります。
同じ価値観では、
もう戻れない。
だから、
違和感があって当然なんです。
もし今、あなたが
・生きているのに、置いてきぼりの感覚がある
・喜ばなきゃいけないのに、喜びきれない
・誰にも話せない気持ちを抱えている
なら、これだけ覚えておいてください。
あなたは、壊れていません。
ちゃんと、生き直している途中です。
生き残ったことに、
立派な理由はいりません。
役割も、使命も、
後からでいい。
今日はただ、
呼吸して、
ここにいる。
それだけで、
この命は、ちゃんと尊い。本を読んだり、
SNSや誰かの言葉に触れたりすると、
「今の私に、まさに必要なメッセージだ」
「これは、私に向けて書かれている」
そんなふうに感じる瞬間があります。
それ自体は、悪いことではありません。
むしろ、感受性がある証拠です。
ただし――
そこで止まってしまう人が、とても多い。
読んだ。
共感した。
癒された気がした。
そして、何も変わらないまま、日常に戻る。
これは、厳しい言い方をすれば
「理解したつもり」になっているだけです。
どんなに素晴らしい言葉も、
どんなに的確なメッセージも、
読んだだけでは、人生は1ミリも動きません。

すべては「実践」です。
動いた人だけが、変わる。
動かなかった人は、何も変わらない。
それなのに最近は、
「ありのままでいい」
「無理しなくていい」
という言葉だけを切り取って、
・動かない理由
・挑戦しない言い訳
・向き合わない正当化
に使ってしまう人がいます。
これはもう、
スピリチュアルでも、心理でも、優しさでもなく、
ただの自己都合解釈です。
ここは、はっきり言っておきたい。
「わがまま」なのか、
「自分を大切にしている」のか。
「甘え」なのか、
「本当に必要な休息」なのか。
この違いは、とても曖昧に見えて、
実は、驚くほどシンプルです。
それは――
動いたかどうか。
そして、
動いたあとに、どう感じているか。
・少し怖かったけど、やってみた
・面倒だったけど、一歩踏み出した
・逃げたかったけど、向き合った
そのあとに、
・どこか清々しい
・胸の奥がスッとする
・身体が軽い
・自分を誇らしく感じる
こういう感覚が残っているなら、
それは「自分のためになっている選択」です。
逆に、
・何もしていないのに安心した気になる
・動かないことで正しい人になった気がする
・心は楽だけど、どこかモヤモヤが残る
この状態が続くなら、
それは優しさではなく、停滞です。
本当に自分を大切にするとは、
自分に甘くすることではありません。
ときに、
自分に問いを向けること。
自分を少し動かすこと。
自分の可能性を信じて、一歩出すこと。
それができたとき、
心と身体は、ちゃんと教えてくれます。
「それでいいよ」
「今の選択、間違ってないよ」と。
言葉を集めるより、
共感を集めるより、
一歩、動いてみる。
それができた人から、
人生は、静かに、でも確実に変わっていきます。僕は、家系的に、生まれたときから
いわゆるスピリチュアルな世界の中にいました。
神社(かんじゃ)家は、正直、少し変わっていたと思います。
目に見えないものがある、という前提で日常が回っていた。
神様も仏様も、特別な存在ではなく、
いつもすぐそばにいる、気配のようなものだった。
それは僕にとっては「能力」でも「特別」でもなく、
ただの当たり前でした。
でも、その感覚を
分かち合える人は、ほとんどいませんでした。

どれだけ言葉を尽くしても、
どれだけ丁寧に説明しても、伝わらない。
わからない、ではなく、
最初から世界の見え方が違うのだと、
後になって気づきました。
若い頃、僕はイギリスへ渡りました。
20年ほど前には、この世界を「科学的に」「理論的に」説明しようと本気で取り組みました。
「証明できれば、伝わる!」
「理論があれば、理解される!」
そう信じていました。
でも、結果は同じでした。
伝わらないものは、伝わらない。
わかりたくても、わからない人がいる。
そもそも、信じようとしない人もいる。
そのとき、ようやく気づいたのです。
わかってもらおうとすること自体が、傲慢だったのかもしれないと。
そこから僕は、
「知りたい人にだけ伝えよう」と思うようになりました。
それでも、完全には伝えきれませんでした。
ずっと、孤独でした。
わかってもらえない!
伝わらない!
同じ景色を見ている人がいない!
そんな僕に、パートナーができました。
その人は、
僕の見ている世界を完全には理解していません。
ただ、
一緒にいる。
それだけでいい、ということを
初めて知りました。
女性の出産を、男性が完全に理解できないように、
この世界には、どれだけ愛しても、どれだけ近くても、
絶対にわからないことがあります。
でも、だからこそ、
「わからない」を前提に、
相手をわかろうとする姿勢が、
愛になるのだと思います。
振り返ると、
僕に欠けていたのは、
教えることでも、
説明することでも、
証明することでもありませんでした。
わかり得ないものの前で、
ただ、寄り添い、そこにいること。
それだけで、よかった。