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心の処方箋

恋愛、人生、心について

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本気で人生を整えたい方は、どうぞ、相談室へ。

2026/02/23

難病を克服して、どうしてカウンセラーになったのですか――

そう問われることがあります。

 

志があったから?

使命感に燃えたから?

 

違います。

 

それしか、できなかったから。




もともと、僕は教師になるつもりでした。

 

大学を卒業した後、さらに2年。

教育課程を追加で履修し、教員免許を取得しました。

 

実際、教える仕事は向いていたと思います。

評判も悪くなかった。

 

教壇に立つ自分を、自然だと感じてもいました。

 

事実、イギリスで日本語教師をして、

勘違いかもしれないけど、

とにかく、みんなから愛された。

 

それでも、なぜか、今ここにいる。

教師ではなく、カウンセラーとして。

 

理由は、きわめて単純です。

 

求められたから。


・相談が来る

・話を聴く

・また紹介が来る

 

気づけば、続いていました。

 

目指してなったというより、

流れの中で残った職業。

 

もちろん、闘病時代の母のような人を

支えたいという気持ちは、ずっとありました。

 

でも、「カウンセラーになろう」と

強く志したわけではありません。

 

僕は精神科医ではない。

臨床心理士でも、公認心理師でもない。

 

その資格を取ろうと思わなかった理由は、

驚くほどシンプルです。

 

いつ辞めてもいいと思っているから。


資格で縛られたくなかった。

肩書きで守られたくもなかった。

 

求められなくなったら、やめればいい。

そのくらいの距離感で、続いてきました。

 

正直に言えば、

今は「書くこと」のほうが楽しい。

 

「話す」ことも、好きです。

 

・医療の現場で体験してきたこと

・患者として見てきた現実

・治療と回復の間で学んだ知恵

 

それを発表し、共有し、

雑誌や本で伝えていく。

 

そちらのほうが、

いまの心にはフィットしている気もします。

 

けれど。

 

それでも、

求められるのは、カウンセリング。

 

予約が入り、

「神社さんに話を聞いてほしい」

と言われる。

 

これはきっと、

まだこの仕事が、

僕にとって意味を持っている証拠なのでしょう。

 

無理に方向転換する必要はない。

 

自然に任せる。

流れが変われば、変わればいい。

 

嫌ではない。

むしろ、ありがたい。

 

難病を克服したからカウンセラーになった、

という美しい物語ではありません。

 

ただ、生き延びた結果、

いまここにいる。

 

そして、必要とされる場所で、

できることをやっている。

 

それだけです。

 

肩書きよりも、

流れ。

 

使命よりも、

自然。

 

僕はたぶん、

「なる」のではなく、

「残る」タイプの人間なのだと思う。


2026/02/22

今から26年前、毎晩、

自分の手で、細いチューブを鼻から胃まで通していました。

 

 

眠る前の儀式。

いや、儀式というほど美しいものではありません。

 

違和感、吐き気、涙。

それでも、9時間かけて栄養を流し込む。

 

それを、4年間。

絶食です。

 

「どうして続けられたのですか?」

 

よく聞かれます。

 

努力でも、根性でもありません。

美談にする気もありません。

 

それしか、生きる方法がなかった。

 

ただ、それだけです。

 

選択肢がなければ、人はやる。

やるしかなければ、続く。

 

何度も死のうとしました。

 

けれど、不思議なことに、

僕が命を諦めようとしても、

命のほうが、僕を諦めない。

 

最後の最後まで、

しぶとく、離れない。

 

人はそんなに簡単に、自分を殺せない。

 

世の中には自ら命を絶つ人もいる。

けれど、僕には、その“勇気”がなかった。

 

情けない話かもしれない。

でも、事実です。

 

死ねなかった。

だから、

生きるしかなかった。

 

辛い。

痛い。

苦しい。

孤独。

 

未来は見えない。

絶食生活がいつ終わるのか、医師もわからない。

 

その中で、僕がやったことは、ひたすら本を読むことでした。

 

動けない。

ならば、読む。

 

そして、知りました。

 

自分よりも、はるかに過酷な環境で生きている人たちがいることを。

 

・手のない人

・足のない人

・目が見えない人

・耳が聞こえない人

・寝たきりの人

・数えきれない

 

正直に言えば、僕は“上”を見なかった。

“下”を見て、生きました。

 

あの人たちが生きているなら、

僕も、もう少しだけ、生きてみよう。

 

その繰り返し。

 

勇気は、立派な言葉からは生まれなかった。

誰かの現実から、生まれた。

 

あの4年間は、

「いい経験」だったとは言えません。

 

あまりにも苦しすぎた。

 

もう一度やれと言われたら、断ります。

 

でも――

あの時間があったから、

いま、誰かの話を最後まで聞ける。

 

絶望の顔を見ても、目を逸らさない。

「大丈夫」と軽々しく言わない。

 

それだけは、確かです。

 

僕は、すごい人ではありません。

 

逃げたかった。

何度も終わらせようとした。

強くなんてなかった。

 

ただ、生かされた。

 

それは、運がよかったから。

支えてくれる人がいたから。

 

本があったから。

医療があったから。

 

恵まれていた。

その自覚だけは、あります。

 

だから今度は、

僕が、誰かにとっての“下”になればいい。

かつての僕が、

誰かの現実から勇気をもらったように。

 

苦しみは美化しない。

けれど、無駄にもしたくない。

 

死ねなかった夜が、

いま、誰かの希望になるなら、

あのチューブも、

あの9時間も、

あの孤独も、

ようやく、報われる気がします。


2026/02/21

このたび、日本医師会賞(第9回「生命を見つめるフォト&エッセー」)にて

受賞した僕のエッセイが、読売新聞紙面に全文掲載されました。



多くの受賞作品がある中で、
全文での掲載という形をいただき、
身の引き締まる思いでおります。



紙面を開いたとき、

まず浮かんだのは誇らしさよりも、

「責任」という言葉でした。


言葉は、人の心を動かします。


ときに救い、

ときに支え、

ときに人生の向きを変える力を持っています。


17歳で父を亡くし、

難病を経験し、

未来が見えなかった時期を経て、

僕は「整える」ということを軸に、

20年以上カウンセリングに携わってきました。

 

今回の掲載は、

過去の出来事が評価されたというよりも、

「これから、どう在るのか」

を問われている出来事だと受け止めています。


賞をいただくことが目的ではありません。


誰かの絶望が、少しでも軽くなること。

安心の中で、人が本来の自分を取り戻していくこと。


そのために、言葉を磨き続けてきました。


今回の掲載は、僕個人の栄誉ではなく、

これまで関わってくださった

すべての方々との歩みの結果です。


日々読んでくださる皆さま、

カウンセリングに来てくださる皆さま、

支えてくださるすべての方へ、

心より感謝申し上げます。


これからも、静かに、しかし確かに。

言葉の力を信じて歩み続けます。


2026/02/21

日本医師会賞を受賞してから、よく聞かれるようになりました。

「どうして難病が治ったのですか?」

 

答えは一つではありません。

 

医療、出会い、環境、学び、時間。

いくつもの要素が重なり合った結果です。

 

けれど、あえて一番大きな理由を挙げるなら――

完治を諦めたからです。



 

クローン病と向き合っていた頃、僕は「完治」に取り憑かれていました。

 

数値が悪ければ落ち込み、良ければ歓喜する。

検査結果に人生を支配される毎日。

 

治すことばかりに意識が向き、

“元気である”という本質を見失っていました。

 

しかしある時、考え方を変えました。

 

完治を目標にするのではなく、
元気を目標にする。

 

病気があってもなくても、

人が目指すべきは「元気に生きること」ではないか。

 

その瞬間、心がふっと軽くなりました。

囚われが外れたのです。

 

もう一つ、大きな転機があります。

 

それは、普通の生き方を諦めたこと。

 

「諦める」という言葉は、一般にはネガティブに響きます。

しかし仏教では「明らかに見る」という意味を持ちます。

 

できることと、できないことを、冷静に見極めること。

 

僕は積極的に諦めました。

 

体力勝負の仕事はできない。

安定したサラリーマン人生も難しい。

 

ならばどうするか。

 

体が弱い分、頭で勝負する。

動けないなら、動かなくていい仕事を選ぶ。

 

きっかけをくれたのは母でした。

 

ベッドで本ばかり読んでいた僕に、こう言ったのです。

「どうせなら、翻訳家になればいいじゃない」

 

英語も本も好きだった僕にとって、それは救いの言葉でした。

 

できないことを数えるのではなく、

できることを伸ばす視点を持てた瞬間でした。

 

完治は諦めた。

普通も諦めた。

でも、元気になることだけは諦めなかった。

 

この一見矛盾した姿勢こそが、

僕を回復へ導いたのだと思います。

 

「治す」に固執すると、苦しくなる。
「生きる」に軸足を移すと、力が戻る。

病気は敵ではありません。

生き方の再設計を迫るメッセージだったのかもしれません。

 

今、病と向き合っている方へ。

 

完治を目指すな、とは言いません。

医療は最大限活用すべきです。

 

けれど同時に、

元気という感覚を先に取り戻してみてほしい。

 

できないことより、できること。

失ったものより、今あるもの。


普通を手放したとき、

あなた本来の人生が始まることがあります。

 

矛盾を抱えたまま、前に進んでいい。

 

それが、僕が辿り着いた回復のかたちです。

2026/02/20

17歳で父を亡くし、

20歳で指定難病(クローン病)を発症。

 

8度の手術。

4年間の絶食。

 

当時の僕に、いちばん必要だったものは何か。

それは、

最先端の医療でも、

名医の肩書きでも、

自己啓発でも、

カウンセリングでもありませんでした。



 

「クローン病を治して、元気に生きている人に出会うこと」


たった、それだけでした。


 

希望は、理論ではなく「実在」から生まれる

人は、データでは動きません。

統計でも、論文でもありません。

 

「この人は、治った」

 

その“実在”だけが、

絶望の底にいる人間を立ち上がらせます。

 

当時の僕は、世界中を探しました。

まだ情報も乏しい時代に、ネットを使い、英語の記事を読み漁り、海外の医師や患者の体験談を追いかけました。

 

必死でした。

 

英語ができるようになったのも、

留学を決意したのも、

すべては「治った人を見つけたい」という一心からでした。


 

出会ったのは「治る」と断言する医師だった

探し続けた先で、

あるオーストラリア人医師に出会いました。

 

彼はこう言いました。

 

「君が治して、みんなの希望になればいい」

 

その言葉は、衝撃でした。

 

当時、多くの医師は「一生付き合う病気」と説明しました。

それは医学的には誠実な説明です。

 

でも、僕の魂が求めていたのは、

“管理”ではなく、“回復”でした。

 

彼は、治ると本気で言い切った。

そして、BODY・mind・spiritの三方向から整える方法を示してくれた。

 

身体だけでなく、

思考だけでもなく、

目に見えない流れまで含めて、全体を整える。

 

僕はそれを、愚直にやりました。

 

だから、治った。


 

僕が学んだ、たったひとつの真実

世の中にたった一人でも

「治った人」がいる。

 

それだけで、

希望は現実になる。

 

難病だった僕が本当に必要としていたのは、

治療法よりも先に、

 

“未来の自分の姿を見せてくれる存在”

 

でした。

 

だから、今の僕がいる

 

今、僕がカウンセリングで大切にしていることがあります。

 

mind(思考)

body(身体反応)

spirit(言語化できない流れ)

 

この三方向から整えるのは、

あの時の僕が救われたからです。

 

人は、

「正しいこと」を言われても変わりません。

 

でも、

「可能性の実在」を見た瞬間、変わる。

 

もし今、

出口の見えない場所にいる人がいるなら。

 

僕は静かに言います。

 

大丈夫。

あなたの未来は、もう存在している。

 

かつての僕が、

それを証明しています。

2026/02/19

「好きなことで生きていく」

 

耳ざわりはいい。

夢がある。

 

でも、あえて言います。

 

それ、けっこう危うい。

 

なぜなら――

そこに“相手”がいないことが多いからです。

 

仕事は、自分のためにあるのではありません。
仕事は、相手がいて、初めて成立するものです。

「私が好きだからやる」

その動機が悪いとは言いません。

 

でも、

“好き”を中心に据えた瞬間、

視野は驚くほど狭くなる。



 

先日、30年教師を続けてこられた方が、こう言いました。

 

「私は、子どもがきらい。だから続いたの。」

 

思わず、うなりました。

 

これ、深いんです。

 

「好きだから続く」のではない。

「きらいでも、やるべきことをやる」から、プロになる。

 

好きで始めたことは、

嫌いになった瞬間に終わります。

 

でも、

好き嫌いを超えたところにある仕事は、揺らがない。

 

正直に言います。

 

僕は、カウンセリングが“好き”かと言われると、

そうでもない。

 

どちらかといえば、

僕は話すほうが好きです。

 

聴くより、語るほうが楽しい。

 

でも、なぜか自然に聴けてしまう。

そして、求められる。

 

だから、やっている。

 

10年以上、

個人で続き、

クレームも問題もなく、

口コミだけで安定しているのは――

 

好きだからじゃない。

 

求められたことを、淡々と、同じ質で、出し続けたから。

 

それだけです。

 

「好きで生きる」は、美しい。

 

でも、それは時に傲慢です。

 

自分が満たされるかどうかを基準にすると、

相手の喜びは二の次になる。

 

プロに必要なのは、

情熱よりも、再現性と安定性。

 

好き嫌いに左右されず、

その日その日でブレずに価値を出せること。

 

あの先生が言った言葉は、真実です。

 

「子どもはきらい。でも、だから教師ができるの。」

 

感情に振り回されない。

だから、冷静に愛せる。

 

「好き」を追いかけて疲れている人へ。

 

もしかすると、

あなたが向いているのは

“好きなこと”ではなく

“求められること”かもしれません。

 

そして、

それを淡々とやれるあなたこそ、

本物のプロです。

 

好きでなくても、

必要とされるならやる。

 

それは冷たいことではない。

むしろ、誠実です。

 

仕事とは、

自分を表現する場である前に、

誰かの役に立つ場なのです。

 

今日も、淡々と。

それで十分です。


2026/02/18

「どっちがいいですか?」

僕は、よく聞かれます。

 

そのたびに、こう返します。

「どちらが笑顔になりますか?」

 

 

二つで迷うとき。

実は、どっちも正解です。

 

なぜなら――

両方とも、同じくらい魅力があるから迷う。

 

もし一方が明らかにダメなら、

そもそも迷わない。

 

つまり、

どちらを選んでも、人生はちゃんと進む。

 

だったら、

笑顔になる方を選べばいい。

 

  • 楽しい方
  • ワクワクする方
  • テンションが上がる方

 

それが、あなたの正解です。

 

それでも決められないなら?

 

そのときの正解は、こうです。

 

「今は、迷いたい時なんだ」と認めること。


決断しない、

という選択も立派な決断。

 

人は、無理に正解を探し始めると、間違う。

 

なぜか。

自分の本心や直感を無視し始めるからです。

 

「正しいほうはどっちか」

「損しないのはどっちか」

「後悔しないのはどっちか」

 

そうやって頭だけで選ぶと、

自分じゃない人生になる。

 

気づいたら、

“誰かの期待に応えるための選択”ばかりになる。

 

それは、

静かな迷子です。

 

多くの相談は、

実はもう決まっています。

 

背中を押してほしいだけ。

 

なら、こう言えばいい。

 

「私はこっちを選びたい。
 それがさらに輝くためのアドバイスがほしい。」

そのほうが、100倍健全。

 

そして大事なこと。

 

迷うときは、

まだ判断材料が足りないことも多い。

 

頭の中だけで決めるのは危険です。

 

実際に見て。

触って。

会って。

体感して。

 

五感を使わずに人生を決めるなんて、

もったいない。

 

もし誰かに相談するなら。

 

占い師よりも、

あなたの幸せを本気で考えてくれる人。

 

損得ではなく、

あなたの笑顔を優先する人。

 

そこを間違えると、

また不安ビジネスに巻き込まれる。

 

迷いは、弱さじゃない。

 

  • 選択肢がある証拠
  • 可能性がある証拠
  • 人生が豊かな証拠

 

だから最後に、これだけ。

 

 

正解を探すな。

笑顔を探そう。

 

 

あなたは、間違えるために生きているんじゃない。

輝くために、生きている。

2026/02/17

先日、たまたま無料のピアノコンサートに足を運びました。

 

3時間。

リスト、ショパン、ブラームス、バッハ――

誰もが知る名曲が、次々と演奏される。

 

それはそれで、すごかった。

 

技術もある。

難曲も完璧に弾き切る。

 

 

でも。

 

正直に言うと、

一番心に残ったのは、ジブリの曲でした。

 

その演奏者だけが、

有名なクラシック作曲家ではなく、

ジブリを選んでいた。

 

ジャンルが違ったから印象に残った?

 

いや、違う。

 

楽しかったから。


そして何より――

僕たちを楽しませようとしてくれていたから。

 

どうしても、素人が弾くと「発表」になりやすい。

 

  • 上手く弾きたい
  • 間違えたくない
  • 難しい曲を披露したい

 

それは悪いことじゃない。

努力の結晶です。

 

でも、

それが「自慢」や「自己満足」に傾いた瞬間、

音楽は観客から離れていく。

 

うまいのに、残らない。

 

日本は特に、

音楽を“競うもの”にしがちです。

 

超絶技巧。

速さ。

難度。

 

もちろん技術は尊い。

 

でも、

音を楽しむ、と書いて「音楽」。

 

いつから、「勝つためのもの」になったのでしょう。

 

もったいなさすぎる。

 

ジブリを弾いた彼は、

右手に鍵盤ハーモニカ、

左手の伴奏をピアノ、

楽しくリズムを揺らしていました。

 

そこにあったのは、

技術の披露ではなく、

「一緒に楽しみましょう」という姿勢。

 

だから、心に残った!

 

無料で聴かせてもらって、

こんなことを思うのも失礼かもしれません。

 

でも同時に、

僕にとっては大切な学びでした。

 

僕も、気をつけよう。

カウンセリングも、講座も、発信も。

 

「すごい」と言われることを目指すのか。
「楽しかった」と言われることを目指すのか。

どちらが、人の心に残るか。

 

答えは、もうわかっています。

 

上手さより、思いやり。

技術より、楽しませようとする姿勢。

 

音楽も、

仕事も、

人間関係も。

 

すべて、同じだと思いました。

 

あなたは今、

“うまくやろう”としていませんか?

 

それとも、

“楽しませよう”としていますか?

 

どちらが、人の心に残るでしょう。

 


2026/02/16

「思いやり」って、実はとても難しい。

 

なぜなら、

多くの場合――

それは“自分基準”でできているから。


僕が闘病していた頃、

本当にたくさんの人がお見舞いに来てくれました。

 

それ自体は、ありがたいことです。

心から、感謝しています。



 

でも、ある言葉に、だんだん腹が立ってきました。

 

「元気になったら、美味しいもの食べに行こう!」

 

最初は、「うん、そうだね」と言っていました。

 

でも、心の中では違いました。

 

当時の僕は、

たとえ元気になっても

普通の食事ができない身体でした。

 

クローン病。

8度も手術をして、

4年間、絶食を経験しました。

 

「元気になったら食べよう」は、

僕にとっては、叶わない未来の話だったのです。

 

もっと言えば。

お見舞いにお菓子を持ってくる人も、何人もいました。

 

悪気がないのは、わかっています。

 

でもね。

 

病気のこと、少しでも調べた?

一言でも「何か必要なものある?」って聞いた?

 

思いやりって、

“気持ち”だけでは足りない。

 

想像力がなければ、ただの自己満足になります。

 

正直に言うと、

あの頃の僕は、かなりムカついていました。

 

結局、相手は

「何かしてあげたい自分」を満たしたいだけ。

 

こちらの現実は、見えていない。

 

それは優しさじゃない。

ただの、ひとりよがり。

 

これは、病気の話だけではありません。

 

職場でも、家庭でも、恋愛でも。

 

「あなたのためを思って」

という言葉の裏に、

相手をちゃんと見ていない態度が

潜んでいることが、本当に多い。

 

お土産も、

プレゼントも、

アドバイスも。

 

“自分があげたいもの”を渡していないか?

“自分が言いたいこと”を言っていないか?

 

それ、

相手は本当に欲しがってる?

 

本当の優しさとは、想像力です。

 

 

  • 相手が今、何を感じているのか
  • 何をされたら嬉しいのか
  • 何をされたら、実は傷つくのか

 


そこまで考えて、

やっとスタートライン。

 

そこを飛ばして、

 

「モテない」

「人間関係がうまくいかない」

「職場が居心地悪い」

 

と言っているなら――

まずは、自分の“ひとりよがり”を疑ったほうがいい。

 

耳が痛いですよね。

 

でも、僕も痛かった。

 

あの闘病の時間は、

人の優しさの本質を、徹底的に見せてくれました。

 

本当に思いやりのある人は、

人間関係で大きく困ることはありません。

 

なぜなら、

相手の立場に立つ努力をしているから。

 

逆に、

いつも人間関係でトラブルが続くなら、

 

もしかしたら、

 

あなたもどこかで

“自分基準の優しさ”を押し付けているかもしれない。

 

優しさは、センスではありません。

 

訓練です。

 

調べること。

確認すること。

聞くこと。

そして、時には何もしないこと。

 

それが、本物の思いやり。

 

僕は、あの闘病時代を経て、

“気持ち”よりも“理解”を選ぶようになりました。

 

だから今、カウンセリングでは必ず聞きます。

 

「あなたは、どうされたい?」

 

ここを飛ばさない。

 

それが、僕のやり方です。

 

優しいつもりになっていないか。

その一歩の見直しが、

人間関係を、静かに変えていきます。

 

まずは、

一番近い人から。

 

そして、

自分自身にも。

 

あなたは、

本当に今、どうされたいですか?


2026/02/15

魚が食べられないまま、水産学部に進学した人間は、たぶん僕くらいだと思う。

 

信じられないかもしれないけど、

僕は、大学生になるまで「魚」が食べられなかった。

理由は、可哀想だったから。

 

ほんと、馬鹿みたいでしょう。

でも、冗談でもキャラ作りでもなく、マジで、本気の話です。



 

僕は近畿大学の水産学科で、魚の研究をしていました。

 

魚が大好きで、幼少期から水槽が9つ。

庭には池を掘って、魚を飼っていた。


とにかく、魚が好きすぎた。

だから、食べられなかった。

嘘みたいだけど、本当の話です。

 

大学に進学して、魚の専門的な勉強が始まった頃。

ある日、教授が何気なく言いました。

 

「まさか、この中で魚が食べられない人はいないよね?」

 

その瞬間、ドキッとしました。

あ、これ、言えないやつだ、と。

 

それからです。

勇気を出して、少しずつ、食べるようになりました。

 

今では、普通に食べられます。

刺身も焼き魚も、何なら好きです。

 

でも、今振り返ると、

僕は、かなり変わっていたんだと思います。

 

自分では気づいていなかったけど、

今思えば、相当、変。

 

この魚のエピソードだけじゃありません。

 

「え?」と言われるような話は、

まだまだあります。

 

実は、

水産学科を卒業したあと、

僕はまったく別の道を歩きました。

 

難病になり、

何度も手術をし、

4年間ほとんど食べられない生活を経験し、

イギリスに渡り、スピリチュアルやサイキックサイエンスを学び、

今はカウンセラーとして、心の相談を仕事にしています。

 

水産学部出身で、

スピリチュアルも扱うカウンセラー。

 

やっぱり、変ですよね。

 

でも、不思議なことに、

僕はずっと、周りに認められてきました。

 

「そのままでいい」

「あなたらしいね」

「変わってるけど、そこがいい」

 

そう言ってくれる人が、必ずそばにいた。

 

どんなことをしても、

どんな選択をしても、

僕は直されなかった。

 

「それ、おかしいからやめなさい」

「普通はこうでしょ」

 

そう言われ続けていたら、

たぶん、今の僕はいません。

 

変でもいい。

むしろ、変なのがその人の個性で、その人。

 

そうやって、

許されて、認められてきた。

 

それは、本当に素晴らしい家族や仲間、友人に恵まれてきたからだと思っています。

 

大事なことがひとつあります。

 

人は、

誰かに言われて、本当の意味で変われるものじゃない。

 

変わるとしたら、

自分で「変わろう」と思った時だけです。

 

僕が魚を食べるようになったのも、

カウンセラーになると決めたのも、

イギリスに渡ると決めたのも、

 

誰かに直されたからじゃない。

 

自分で、必要だと感じたから。

 

変でもいい。

不器用でも、ズレていてもいい。

 

でも、もし今、

その自分がなんとか幸せに生きられているなら。

 

それは、

周りのおかげです。

 

認めてくれた人がいて、

許してくれた人がいて、

愛してくれた人がいたから。

 

だから、お願いがあります。

 

あなたが何を選んでも、

何を始めても、

何に惹かれても。

 

「それ、いいね」と言ってくれる人を、

どうか大切にしてください。

 

そして、自分の中の

「これがやりたい」という小さな声を、

簡単に裏切らないでください。

 

自分を直さなくても生きられた人は、

きっと誰かに、ちゃんと守られてきた人です。

 

そして今度は、

あなたがあなた自身を守る番なのかもしれません。

2026/02/14

「この数珠、つけたほうがいいですか?」

そう聞かれた瞬間、僕は即答しました。


「要りません。」




先日、ある女性から数珠を勧められていると相談を受けました。


けれどその方は、すでに首元に美しいダイヤモンドを輝かせていた。


その瞬間、答えは決まっていました。

 

僕は、数珠を否定しているわけではありません。


お守りとして、一時的に活用するのは大いに結構。


でも――

「これがないと不安」


「霊能者に言われたから」


「みんなが持っているから」

この動機で身につけるなら、話は別です。


それは信仰ではない。


安心を餌にした依存です。

 

宝石には、希少価値がある。



採掘する人、

研磨する人、

設計する人。


多くの人の手を経て、大切に作られている。


だから、強い。


一方で数珠は、念がこもる。



祈りも、

執着も、

不安も。


持つ人の「怖れ」が染み込みやすい。


そして、長く身につけると、縛られる。


カバンに神社のお守りを何年もぶら下げているようなもの。


正直に言えば、ファッションとしても重い。

 

王族や貴族、富裕層の人たちが
日常で数珠をぶら下げていますか?


彼らは輝きを身につける。
テンションが上がるものを選ぶ。


なぜか。

不安を避けるためではなく、自分の価値を祝福するために。

 

願い事があるなら、数珠をつけてもいい。


でも、ただ「なんとなく不安」ならやめなさい。


その不安こそが、余計なものを引き寄せる。


「これがないと守られない」


そう思った瞬間に、あなたは弱い側に立つ。


僕は、迷える子羊を増やしたくない。


SNSやメディアは、恐怖を煽る。


不安を作り、商品を売る。

でも本来、あなたはすでに光っている。

 

宝石でなくていい。


高価でなくていい。


キラキラして、
見た瞬間に気分が上がるもの。


それで十分。


「しなければいけない」ではなく、


「好きだからつける」が、本当の開運。

 

誰かに確認した時点で、
もう答えは外にある。


もっと素直に。


もっとシンプルに。


もっと直感的に。


楽しくジュエリーを身につけよう。

あなたは、守られる存在ではない。

 


輝く存在だ。


2026/02/13

正しいことを、ちゃんとやってきた。


それなのに、なぜか楽になれない。

 

そんな人を、僕は何人も見てきました。



 

僕のカウンセリングは、

たぶん普通じゃないと思う。

 

もちろん、話は聴く。


徹底的に、丁寧に、最後まで聴く。


 

でも同時に、ズバッと言う。

 

ときには、コーチのようになる。


ときには、占い師のような顔をする。


必要とあらば、

霊媒のような立ち位置になることもある。

 

一貫性がないように見えるかもしれない。



でも、理由はとてもシンプルだ。

 

とにかく、

目の前の人に楽になってほしい!!!

 

ただ、それだけ。

 

正直に言えば、


僕は「手段」には、こだわっていない。

 

心理学でもいい。


スピリチュアルでもいい。


現実的なアドバイスでも、厳しい言葉でもいい。

 

その人が、
今より少し息がしやすくなるなら。


肩の力が、ほんの少し抜けるなら。

 

それでいいと思っている。

 

極端なことを言えば、


僕じゃなくてもいい。

 

僕のところを通過点にして、


別の誰かや、

別の場所で楽になるなら、


それが一番いい。


そう本気で思っている。

 

なぜなら、


僕自身がそうだったからだ。

 

難病になったとき、


「正しい治療」


「正当なやり方」


「常識的な選択」

それらをきちんと守っても、


僕の体は、まったく良くならなかった。

 

もう、

そんなことを言っていられる状態じゃなかった。

 

僕はただ、
生きたかった。


元気になりたかった。


だから、

手段なんてどうでもよかった。



回復するなら、

治るなら、何でもよかった。

 

おそらく、


本当にしんどい人も同じだと思う。

 

理屈よりも先に、


理想よりも先に、


とにかく、この状態から抜け出したい。

 

そんなときに、


「正しいやり方」にこだわる必要はない。

 

その人にとって、


今いちばん効くこと。


今いちばん届くこと。


それをやらせてもらうのが、


一番誠実だと、

僕は思っている。

 

だから、

昨日のカウンセリングでは、


あえて厳しく叱った。

 

喝を入れた。


はっきり言った。


目を覚ましてもらうために。

 

優しさだけでは、


その人が前に進めないと感じたからだ。

 

僕は怒ることもある。



でもそれは、

支配したいからじゃない。


コントロールしたいからでもない。

 

生きてほしいから。

楽になってほしいから。



もうこれ以上、

自分を傷つけなくていいと、
心から思うから。

 

スピリチュアルを、


信じても、信じなくてもいい。

 

占いを、


好きでも、嫌いでもいい。

 

ただ、
楽になればいい。


それだけで、

僕は十分だと思っている。

 

「正しさ」よりも、


「回復」を優先していい。

 

それを思い出したくなったら、


またここに戻ってきてください。


2026/02/12

「間違えたくない」


「失敗したくない」

──その時点で、もう詰んでます。

 

はっきり言いますが、


それは慎重でも賢明でもありません。



ただの停止です。



 

失敗していないんじゃない。


何もしていないだけ。

 

だから、

何年経っても同じ場所で
同じ悩みを抱えて、

同じことをグルグル考えている。

 

それを「考えている」と呼ぶのは、


正直、甘い。

 

今年も、悶々としている人に
同じことを伝えています。

 

「ほんの少しでいいから、
今までと違うことをしよう」

 

理由?


年廻り的に“動け”だからです。

 

でも、返ってくるのは決まって
こういう言葉。

 

「もう少し考えてから」


「失敗したら怖いので」


「タイミングを見て」

 

……で?


その“もう少し”は、いつ終わるんですか。

 

カウンセリングでは強要しません。


傾聴は大事です。

 

でも、知人や友人には、
遠慮なく言います。

 

「間違えるのが怖い、という考え方そのものが間違いだ」

 

そもそも、人生に
正解も失敗もありません。

 

あるのは、

・損した“気がする”得した“気がする”


・周りと比べて自分に都合がいいか悪いか

 

ただ、それだけ。

 

自分で勝手に点数をつけて、


勝手に落ち込んで、


勝手に人生を止めている。

誰にも止められていないのに。

 

「動かなくてもいいんですよね?」


と聞かれることがあります。

 

別に、いいですよ。


止まっていても。

 

でも、

動かずに
変わりたいとか


報われたいとか
楽になりたいとか

それは、


努力じゃなくて妄想です。

 

僕たちは、生きています。


心臓は、今日も勝手に動いている。

 

つまり、


本来は“動く存在”なんです。

 

それを


「間違えたくない」


「失敗したくない」

そんな理由で
人生をストップさせるのは、


自然に逆らっている。

 

そりゃ、苦しくなります。

 

無理はしなくていい。


大きく変わらなくてもいい。

 

でも、

「間違えたくない」


「失敗したくない」

この言葉を言い訳にして
何もしない人生だけは、


本気で、もったいない。

 

以上。


これが、僕の本音です。

 

もし、ここまで読んで


「分かっているけど、やっぱり動けない」



そう感じたなら──

それは、あなたが怠けているからではありません。



これまで、ちゃんと傷ついてきたからです。

 

だから、無理に今すぐ動かなくていい。


責める必要もない。

 

ただ、


「動けない自分を守るための言い訳」

を
真実だと信じ込まないでほしい。

 

必要なタイミングは、必ず来ます。


そのとき、

あなたが動ける自分でいられますように。


2026/02/10

僕は、いまでも手紙を書く。

メールやLINEが当たり前になった今でも、だ。

今朝も、書いた。

 

自他共に認める筆まめ、というより、

「書かずにいられない性分」なのかもしれない。

とにかく、よく書く。

 

書くのが好きかと聞かれたら、嫌いではない。


でも、それ以上に大きいのは、

ちゃんと伝えたいという気持ちだ。



 

昔から、本を読むと、じっとしていられなかった。

 

心に残る一文に出会うと、

「ありがとうございます」で終われない。

 

本に挟まっている読者カードに、

その時の自分の状況や、

救われた一文、

なぜ胸に残ったのかを、正直に書いて送った。

 

するとある時、

著者本人から、直接、手紙が届いた。

形式的なお礼ではなく、

「あなたの言葉に、こちらが励まされました」と。

 

その後、実際に会うことになり、

静かな喫茶店で、人生の話をした。

 

不思議なご縁だったけれど、

振り返ると、書いたから、始まったご縁だった。

 

僕は文具屋さんが好きだ。

 

便箋を選ぶ時間、封筒の紙質、

シールを一枚貼るかどうかで迷う、その間。

すべてが、「相手を思う時間」だからだと思う。

 

字が綺麗ですね、と言われることがある。

 

でもそれは、才能でも技術でもない。

きっとただ、

雑に伝えたくなかっただけだ。

 

カウンセリングでも、同じことを思う。

 

早く答えを出すより、

急いで安心させるより、

その人の言葉が、自然に出てくるのを待つ。

 

相手を思って続けてきたことは、

不思議と、あとから形になる。

 

無理に上手くなろうとしなくても、

「想い」があれば、続くし、深まる。

 

ブログも、手紙も、

僕にとっては同じ延長線上にある。

 

自己表現というより、

ご縁の手入れのようなものだ。

 

急がなくていい。

上手く書かなくていい。

 

ただ、想いを込める。

 

それだけで、

言葉は、ちゃんと行くべきところへ届く

と思う。

2026/02/09

「思ったより、身長が高いんですね」

よく言われます。

 

177センチあります。

でも、なぜか見た目は低く見えるらしい。

 

不思議なものです。

 

 

東京に来る前まで、体重は55キロ。

とにかく、増やしたかった。

 

食べても、食べても、増えない。

筋トレしても、増えない。

プロテインも、努力も、ことごとく空振り。

 

「せめて普通体型になりたい」

それが、当時の切実な願いでした。

 

 

それが東京に来て、三年半。

気づけば70キロ。

 

……増えた。

ちゃんと、増えた。

 

やったー!

これでようやく「標準体型」と言っていい。

 

……はずなのに。

 

今度は、こう思っている自分がいます。

 

「ちょっと、身体を絞りたいな……」

 

増やしたい、増やしたいと願っていたのに、

増えたら増えたで、今度は痩せたい。

 

なんだかな、です。

 

 

人って、ほんとうに面白い。

 

足りない時は、欲しくなる。

手に入ったら、今度は手放したくなる。

 

結局、

人はどんな状況にいても、ないものねだりをする生き物

なんでしょうね。

 

 

でも、最近はこう思います。

 

文句が出るのは、

「まだ生きてる証拠」

「欲がある証拠」

「感覚が鈍っていない証拠」

 

悪いことばかりじゃない。

 

大事なのは、

「満たされない自分」を責めることじゃなくて、

「また、ないものねだりしてるな」って

少し笑って眺められること。

 

それだけで、

人生はだいぶ、やさしくなります。

 

 

今日も、

増えた身体と、

痩せたい気持ちを、

両方抱えたまま。

 

それでも、

まあ、悪くないなと思っています。


2026/02/07

2026年2月7日、

「第9回 生命を見つめるフォト&エッセー」表彰式が

東京都内にて開催されました。




このたび、拙作エッセイ

「完治と閉院の日に」が

日本医師会賞を受賞し、

表彰を受けました。


本作は、20代で指定難病を経験した患者としての視点から、

医療と命に向き合う時間を記録したエッセイです。


治療の過程で出会った医師の姿勢や言葉を通して、

医療が人の人生に与える影響を見つめ直すことを目的として執筆しました。


医療・看護・患者との関わりや、

人間や動植物の「いのちの輝く一瞬」をテーマとする本公募において、

本作を選出いただいたことを、

大変重く、ありがたく受け止めています。


今後も、これまでの経験を言葉にしながら、

誰かの人生に静かに寄り添う活動を続けてまいります。


本企画に携わられた関係者の皆さまに、

心より感謝申し上げます。

2026/02/06

これまで、本当にたくさんの人をカウンセリングしてきました。

 

時間も、お金も、勇気も使って、ここまで来ている。

 

それなのに——

変わらない。

変えようとしない。

 

その姿を前に、正直、何度も悶々としてきました。



 

僕は、ずっと伝えてきました。

 

  • 自分を責めなくていい
  • 拗ねている場合でもない
  • わかってもらおうとしなくていい
  • 自己肯定感や自信が整うのを待たなくていい

 

とにかく、動こう。

 

実際、動いた人は、確実に変わりました。

 

結果が出た人もいれば、人生の流れが変わった人もいる。

中には、病気が治った人もいました。

 

一方で、ほとんどの人は変わらない。

理由は、とてもシンプルです。

 

その場に居続けているから。

 

学び続けている。

癒され続けている。

分かってもらおうとしている。

 

でも、「今までと違うこと」は、

していない。

 

その場にいても、人は変わりません。


変わりたいなら、今までと違う選択をするしかない。

生き方や、在り方を、少しでも変えるしかない。

 

誤解してほしくないのは、

これまでの生き方が「間違っていた」と言いたいわけではありません。

 

よくここまで、耐えてきた。

よく頑張ってきた。

それは、事実です。

 

でももし、

苦しい。

しんどい。

このままは嫌だ。

 

そう思っているなら——

今、変わるしかない。

 

誰かが変えてくれるわけじゃない。

環境が整うのを待っても、何も起きない。

 

変わらない選択をしている限り、

人生は、ちゃんと“変わらないまま”でいてくれます。

 

正直に言うと、

変わらない人を見続けるのは、つらいです。


ここまで来ているのに。

あと一歩なのに。

 

そう思う場面を、何度も見てきました。

 

変わることが、正解だとは思っていません。

でも、しんどいなら。

苦しいなら。

 

変わろうよ。

 

僕は、そう言い続けます。

一緒に、やろう。

逃げずに、現実を動かそう。

 

それが、僕の仕事であり、
僕がこの場に立ち続けている理由です。

2026/02/05

「生き残ってしまった人の、言葉にできない孤独」


これは

・難病を越えた人

・大切な人を見送った人

・人生の底を知ってしまった人


が、誰にも言えずに抱えている感情です。




今日は、

あまり表では語られない話をします。


共感されにくいし、

言葉にすると誤解もされやすい。


それでも、

これを必要としている人が

きっといると思うからです。




生き延びたあと、

人は必ずしも「前向き」になるわけではありません。


むしろ、

言葉にできない孤独を抱えることがあります。


「助かってよかったね」

「元気になってよかったね」


そう言われるたびに、

笑顔で頷きながら、

心の奥で思ってしまう。


――本当に、そうだろうか。


生きたかった人が、亡くなり

生きたくても生きられなかった人がいて

それなのに、自分は生きている。


この感覚を、

誰に説明できるでしょうか。


感謝しなければいけない。

前向きでいなければいけない。

もう大丈夫な人でいなければいけない。


でも、

心はそんなに器用じゃありません。


僕自身、

何度も「生きてしまった」と感じたことがあります。


喜びより先に、

戸惑いが来る。


希望より先に、

責任のような重さが来る。


「この命を、

どう使えばいいんだろう」


そんな問いが、

静かに、何度も立ち上がってきます。


ここで、

無理に答えを出そうとしなくていい。


使命を探さなくていい。

意味づけを急がなくていい。


生き残った人は、

しばらく“迷っていていい”。


これは、逃げでも弱さでもありません。


人は、

一度“死の近く”を通ったあと、

同じ速さでは生きられなくなります。


同じ価値観では、

もう戻れない。


だから、

違和感があって当然なんです。


もし今、あなたが

・生きているのに、置いてきぼりの感覚がある

・喜ばなきゃいけないのに、喜びきれない

・誰にも話せない気持ちを抱えている

なら、これだけ覚えておいてください。


あなたは、壊れていません。

ちゃんと、生き直している途中です。


生き残ったことに、

立派な理由はいりません。


役割も、使命も、

後からでいい。


今日はただ、

呼吸して、

ここにいる。


それだけで、

この命は、ちゃんと尊い。

2026/02/04

本を読んだり、

SNSや誰かの言葉に触れたりすると、


「今の私に、まさに必要なメッセージだ」

「これは、私に向けて書かれている」


そんなふうに感じる瞬間があります。


それ自体は、悪いことではありません。

むしろ、感受性がある証拠です。


ただし――

そこで止まってしまう人が、とても多い。


読んだ。

共感した。

癒された気がした。


そして、何も変わらないまま、日常に戻る。


これは、厳しい言い方をすれば

「理解したつもり」になっているだけです。


どんなに素晴らしい言葉も、

どんなに的確なメッセージも、

読んだだけでは、人生は1ミリも動きません。




すべては「実践」です。


動いた人だけが、変わる。

動かなかった人は、何も変わらない。


それなのに最近は、

「ありのままでいい」

「無理しなくていい」

という言葉だけを切り取って、


・動かない理由

・挑戦しない言い訳

・向き合わない正当化


に使ってしまう人がいます。


これはもう、

スピリチュアルでも、心理でも、優しさでもなく、

ただの自己都合解釈です。


ここは、はっきり言っておきたい。


「わがまま」なのか、

「自分を大切にしている」のか。


「甘え」なのか、

「本当に必要な休息」なのか。


この違いは、とても曖昧に見えて、

実は、驚くほどシンプルです。


それは――

動いたかどうか。


そして、

動いたあとに、どう感じているか。


・少し怖かったけど、やってみた

・面倒だったけど、一歩踏み出した

・逃げたかったけど、向き合った


そのあとに、


・どこか清々しい

・胸の奥がスッとする

・身体が軽い

・自分を誇らしく感じる


こういう感覚が残っているなら、

それは「自分のためになっている選択」です。


逆に、


・何もしていないのに安心した気になる

・動かないことで正しい人になった気がする

・心は楽だけど、どこかモヤモヤが残る


この状態が続くなら、

それは優しさではなく、停滞です。


本当に自分を大切にするとは、

自分に甘くすることではありません。


ときに、

自分に問いを向けること。

自分を少し動かすこと。

自分の可能性を信じて、一歩出すこと。


それができたとき、

心と身体は、ちゃんと教えてくれます。


「それでいいよ」

「今の選択、間違ってないよ」と。


言葉を集めるより、

共感を集めるより、

一歩、動いてみる。


それができた人から、

人生は、静かに、でも確実に変わっていきます。

2026/02/03

僕は、家系的に、生まれたときから

いわゆるスピリチュアルな世界の中にいました。


神社(かんじゃ)家は、正直、少し変わっていたと思います。

目に見えないものがある、という前提で日常が回っていた。


神様も仏様も、特別な存在ではなく、

いつもすぐそばにいる、気配のようなものだった。


それは僕にとっては「能力」でも「特別」でもなく、

ただの当たり前でした。


でも、その感覚を

分かち合える人は、ほとんどいませんでした。




どれだけ言葉を尽くしても、

どれだけ丁寧に説明しても、伝わらない。


わからない、ではなく、

最初から世界の見え方が違うのだと、

後になって気づきました。


若い頃、僕はイギリスへ渡りました。

20年ほど前には、この世界を「科学的に」「理論的に」説明しようと本気で取り組みました。


「証明できれば、伝わる!」

「理論があれば、理解される!」

そう信じていました。


でも、結果は同じでした。


伝わらないものは、伝わらない。

わかりたくても、わからない人がいる。

そもそも、信じようとしない人もいる。


そのとき、ようやく気づいたのです。


わかってもらおうとすること自体が、傲慢だったのかもしれないと。


そこから僕は、

「知りたい人にだけ伝えよう」と思うようになりました。

それでも、完全には伝えきれませんでした。


ずっと、孤独でした。


わかってもらえない!

伝わらない!

同じ景色を見ている人がいない!


そんな僕に、パートナーができました。


その人は、

僕の見ている世界を完全には理解していません。


ただ、

一緒にいる。


それだけでいい、ということを

初めて知りました。


女性の出産を、男性が完全に理解できないように、

この世界には、どれだけ愛しても、どれだけ近くても、

絶対にわからないことがあります。


でも、だからこそ、

「わからない」を前提に、

相手をわかろうとする姿勢が、

愛になるのだと思います。


振り返ると、

僕に欠けていたのは、


教えることでも、

説明することでも、

証明することでもありませんでした。


わかり得ないものの前で、

ただ、寄り添い、そこにいること。


それだけで、よかった。


今は、そう思っています。